2009年06月25日

世界を統一的な視点で見た経済活動

世界経済(world economy)とは、世界を統一的な視点で見た経済活動の区切りの一つ。国民経済間の取引に視点を当てる国際経済よりも広い概念である。

また、世界経済において連動している各国の市場をまとめて世界市場と呼ぶこともある。

現代のように、通貨が統合されていない状況においては基本的な経済単位が通貨圏(ほとんどの場合、国民経済圏)になる。しかし、グローバリゼーションの進展により国際経済が発展し各国の国民経済は連動性を強めている。このようにあたかも一つの経済圏のように連動していることから世界経済と呼ばれている。

各国の国民経済の動向は、必ずしも世界経済の動向とは合致しない。それは、世界経済がそれ以上に広い枠組みを持たないことから合成の誤謬が発生するためである。

例として、ある国が貿易収支をプラスにしようと努力し成功すれば貿易収支がプラスになるが、世界すべての国が貿易収支を同時にプラスにすることは出来ない。それは、ある国の貿易黒字が世界の複数の国の貿易赤字を意味するからである。

また、各国の経済成長は足並みがそろうとは限らず、世界経済の成長率を上回る経済成長率を達成する国も出てくる。そういった国は世界経済の機関車として期待を集める。
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ユーラシア大陸の西と東で商品経済が生まれて間もない時期から、それらの経済は互いに結ばれるようになった。東西交易は、当初細々としたものであったが、次第に拡大した。


モンゴル帝国がユーラシア大陸の東西を結ぶほどの広大な版図を確立した時代に、「ユーラシア世界」における世界経済が生まれた。モンゴル帝国滅亡後も、ユーラシア大陸において東西交易が栄えた。

大航海時代以降、ヨーロッパを軸に各国経済は再編され始めた。当初、アフリカや南アジア、南北アメリカがヨーロッパとつながり貿易ネットワークが各国経済の連動性を高め、新しい世界経済誕生の萌芽が生まれた。

産業革命以後、躍進するヨーロッパ経済は19世紀半ばに東アジアも取り込み、現代につながる世界経済の系譜が始まった。各国の工業と金融はイギリス・ロンドンを核とした国際金融体制の下で有機的に結合し自由市場経済を基盤にした世界経済を形成した。

第一次世界大戦において、世界経済の中枢が危機に陥ると世界経済の軸は緩やかに世界最大の工業国アメリカへ移り始めた。

世界恐慌により脆弱な世界経済は連鎖的な危機を引き起こした。各国はブロック経済化を進め、いくつかの国は独自の経済圏確立を図った。


2009年06月10日

憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に

かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。

1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。[8]この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。
かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。

1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。[8]この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。[9]

天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト
議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当
国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト
人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ
委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。[10]内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。

他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。そのような中でも特に異彩を放った改憲案には、天皇制を廃止して人民主権の原則を採用した日本共産党の「日本人民共和國憲法(草案)」[11]、象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用する憲法研究会の「憲法草案要綱」[12]、大統領を元首とする共和制を採用した高野岩三郎の「日本共和国憲法私案要綱」[13]などがある。なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件。)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。

天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト
議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当
国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト
人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ
委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。[10]内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。

他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。そのような中でも特に異彩を放った改憲案には、天皇制を廃止して人民主権の原則を採用した日本共産党の「日本人民共和國憲法(草案)」[11]、象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用する憲法研究会の「憲法草案要綱」[12]、大統領を元首とする共和制を採用した高野岩三郎の「日本共和国憲法私案要綱」[13]などがある。なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件。)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。

2009年06月06日

植木鉢にとって不可避的な問題点は、施肥や水遣りの

植木鉢にとって不可避的な問題点は、施肥や水遣りの失敗などによる根腐れなど、管理者の責に帰すべき事由を除くと、植物体、特に根部の成長によって生じる根部と植木鉢内壁との密着により、植え替えなどの際に植物体を鉢から抜去するのが非常に困難になることである(この現象は根部の発育に伴い、根部が植木鉢内壁に与える圧力(静圧)が上昇することと根部が植木鉢内壁に密着することによる、静止摩擦力の増大による)。このような状態になると植物体を無傷で植木鉢から抜去することが非常に困難になるので、たいてい、陶磁器鉢の場合は鉢を割ったり、またプラスチック鉢の場合はハサミなどで鉢を切って除去することとなる。植物体根部の生育が著しい場合は、植木鉢の壁面に亀裂が生じたり割れたりする等の「鉢割れ」という現象が起こる。特に陶磁器鉢の場合は、根部から植木鉢内壁全周(内から外に)かかる圧縮応力(鉢の外壁側から見ると引っ張り応力)に対して、陶器や磁器は引っ張り強度が小さいので破断(鉢割れ)する。また陶磁器鉢では、鉢の壁面にクラック(亀裂)が入ってはいるが、このクラックの長さ(鉢の「厚み方向」であって壁面上ではないことに注意)が構造力学でいう「グリフィスの臨界クラック長さ」(材料の中に生じたクラックがクラック先端部の応力集中により成長するのを材料自体の弾性変形で食い止められなくなる、クラックの臨界長さ)以下のため、鉢に入っているクラックの延長線上の鉢壁が鉢の厚み方向に「弾性変形」することで、クラックが延長線上まで成長しないでいる、つまり完全には割れないでいる、という現象もよく見られる。しかし、
この「鉢割れ」という現象を逆手に取ることで、あらかじめ鉢壁が割れている鉢を作ることができる。その製法は、鉢割れを起こした鉢(前述の「壁面が完全に破断して
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いない状態の鉢」では、クラックの走行方向の延長線上を軽く叩くことによりクラックを成長させ、鉢を上手に割る)から植物体を抜去し、接着剤等で割れを補修し、鉢の外周にナイロンバンドを巻くなどして保持することにより完成する。この鉢の特徴は、根部の発育によりあらかじめ割れることである。つまり万一、鉢割れ状態になるほど植物体根部が旺盛に発育したとしても、接着剤で接合した部分が、何も処理をしていない鉢の内壁を植物体根部が割るのに要するよりもはるかに低い引っ張り応力で割れることにより、根部へのストレスが軽減されることである。このような鉢を「カチ割れ鉢」と称する。しかし見栄えの点から現在、市販はされていない。なお、植物体(根部)を植木鉢から抜去する方法としては、竹べらや薄くて弾性に富む金属板(8号鉢以上の大型株では建築用の「曲がり尺」が好結果)を植木鉢の内壁といわゆる「根鉢」の間に挿入して左右にこじることを鉢全周にわたり繰り返し、根部と植木鉢内壁との密着をはがす方法もある。ただこの方法では「根部」が痛みやすいことが欠点である。

2009年04月23日

洋傘の歴史

傘が使われ出したのは約4000年ほど前と言われ、エジプト、ペルシャなどの彫刻画や壁画に残っている。ギリシャでは祭礼のときに神の威光を表すしるしとして神像の上にかざしていた。 紀元前7世紀のアッシリアの壁画に、国王の頭上に天蓋のようにかかげてあるのが描かれている。 インドでは傘はもともと酷暑の貴族や高僧の日除けに使われていて、吉祥をもたらす八つの物の一つと数えられている。傘が一般的に使われ出したのは古代ギリシャ時代で、アテナイの貴婦人たちが日傘を従者に持たせて歩いている絵が残っている。そのころの傘は開いたままですぼめることは出来なかった。

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ヨーロッパでも、天蓋から傘は発達したが。今日のような開閉式の傘は13世紀にイタリアで作られたといわれているが、傘の親骨(フレーム)には鯨の骨や木を使っていた。イタリアで作られた日傘がスペインとポルトガルに広がった。フランスへは1533年にフィレンツェのメディチ家のカトリーヌがアンリ王子(のちのアンリ2世)に嫁いだときに伝えられたといわれている。17世紀のフランスでは、町中で2階から投げ捨てられる汚物(糞尿)を避けるために女性には傘が必需品だった。18世紀頃にイギリスで現在の構造の物が開発された。当初、雨傘は女性の持ち物とされていたが、1750年、慈善家で旅行家であり、著述家、商人でもあったジョーナス・ハンウェイが雨傘を使用したことを切っ掛けに男性にも大幅に普及した。彼がペルシャを旅行中に見つけた中国製の傘が雨傘として使われていたのに感激し、これを広めようと思って防水を施した傘をさしてロンドンの町を歩いたという。女性の持ち物とされていた傘を、男性は雨の日には帽子で雨をよけるのが当たり前で雨具として男が傘を使うのはペチコートを着るのと同じことだというほど奇異に思われる時代にその大胆さは変人扱いをされたとされる。ところがジョナスが約30年間も手に持ち歩き雨傘として使い続けたことで、イギリスの男たちの目にも次第に傘が見慣れたものとなっていったという。

イギリスのジェントルマンの中には、専門の業者に依頼して細く綺麗に巻かせた物を使用する人もいる。

ヨーロッパにおいて、永らく傘は贅沢品であり、富と権力の象徴だった。遺言書に傘を誰が継ぐのか、を書くことも珍しくなかったようである。それ故に、洋傘と比べて材料費が安く、比較的安価に手に入った和傘を使っていた日本人と比べて傘に対する見方が違い、日本でコンビニエンスストア等で売られている安物のビニール傘を見て驚くヨーロッパ人がいるそうである。

日本で洋傘が普及したのは19世紀後半からである。当時のその黒色の洋傘の形状がコウモリに似ている所から、「蝙蝠傘」(こうもりがさ)、あるいは略称で「こうもり」と呼ばれるようになった。1960年代頃までは傘と言えば和傘を指し、洋傘を「こうもり傘」と呼んで区別していた。

2008年現在では、洋傘が広く普及し、単に傘と言った場合は、こうもり傘(洋傘)を指すようになった。

なお、こうもり傘の語源に関しては、「傘をかぶる」が「こうむる」となり、これを語源とするなどの複数の説が為されているが、嘉永7年(1854年)に浦賀にペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから生まれたという説が最も有力である。

現代生活と傘
現在の日本では、雨傘は不要となるとその存在が忘れられてしまう事が多く、交通機関における忘れ物として、常に上位に位置している。また、会社や学校など頻繁に行く場所に備えておく傘を「置き傘」と呼ぶ。

駅などでは無料または低価格で傘を貸し出す「貸し傘」も存在し、傘の表面に入れた広告による収入で運営されているが、返却率の悪さから廃止されることも多い。

以前は傘の修理を行う店も存在していたが、安価な外国製品の台頭で、修理して使用し続けるという意識は少なくなっている。ただし日本製の傘であれば、専門店や百貨店で購入すれば充分修理も可能で、海外からの低価格攻勢と文化侵害に打ち克つ「差異化(さいか)」の道として、アフターマーケットの充実が次第に着目されてきている。 また、近年、天気予報が正確化して、傘をあらかじめ雨を予測して持って出勤することも多く、喫茶店などで傘の立て置きや置きようには結構困ることがある。傘をテーブルなどに立て置きするなどの傘ストッパー/ストラップが売りだされてもいる。 ただし天然樹曲げものハンドルの場合は、ハンドルの先を支点としてテーブル等に引っ掛けると、間違いなく曲げが戻る(あくび)現象の引き金になるので注意が必要である。

2009年04月19日

ロシアの東方進出

ロシアは東方にも南下していった。日本には、エフィム・プチャーチンが派遣され、1855年に日露和親条約を、1858年に日露修好通商条約を締結した。日露和親条約でウルップ島以北をロシア領とし樺太は日露雑居という形になったが、明治時代になって樺太千島交換条約で千島列島は日本領に編入され、樺太はロシア領に編入されることとなった。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーはアロー戦争の調停を理由に、1858年にアイグン条約を締結し黒竜江を露清間の国境と定め、ウスリー川以東の沿海州を共同管理地とし、その後1860年の北京条約で沿海州をロシア領に編入することに成功し、ウラジヴォストーク(Владивосток)を建設した。

中央アジアではブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国といったウズベク族の3ハン国を支配し、ロシアの原料供給地と化すことに成功した。東トルキスタンでヤクブ・ベクが反乱を起こすとそれに介入し、結果としてイリ地方の一部を割譲させることに成功。その後アフガニスタンを巡ってイギリスとの衝突を繰り広げることとなった。

清朝への外圧の高まり
アヘン戦争の後、イギリスのアヘン貿易は拡大したが、現地の商業ネットワークに食い込むことが出来ず、肝心の工業製品は拡大しなかった。イギリスでは貿易拡大のためにもう一度戦争も辞さずという雰囲気が高まり、1856年のアロー号事件は戦争を起こす為の導火線となった。同時期にインドシナ半島から中国大陸に進出を伺っていたフランスもキリスト教宣教師が殺害されたことを口実に出兵し、1857年、アロー戦争(第2次アヘン戦争)が勃発した。

最終的には天津条約、北京条約で英仏両国は外国公使の北京駐在、キリスト教布教の自由、外国人の中国での旅行と貿易の自由、外国商船の河川航行の自由、新たに南京等10港の開港、イギリスに九竜半島を割譲するといったものだった。その結果、清は1861年に総理衙門を設置し従来の冊封体制による伝統的外交政策が破綻することとなった。また、調停に入ったロシアも清から沿海州を獲得し、東方方面の南下政策を強めていった。1858年のアイグン条約で沿海州は露清の共同管理となった。

同じころ、キリスト教の影響を受けた客家出身の洪秀全が広西省金田村で1851年に挙兵して「太平天国」をたて、1853年に南京を占領して首都とした。太平天国は、清朝の打倒と漢民族の復興(「滅満興漢」)をかかげ、土地の均等分配や租税の減免などをうったえて勢力を拡大したが、指導者間での内部紛争に加え、各地の有力な地主(郷紳)たちは曽国藩、李鴻章、左宗棠など各地の漢人官僚と結んで義勇軍を組織し、常勝軍を率いたフレデリック・タウンゼント・ウォードやチャールズ・ゴードン(ウォード死没後、常勝軍を指揮)ら外国人将兵の協力もあって、1864年になってようやく太平天国軍を鎮圧した(太平天国の乱)。これによって、曽国藩や李鴻章、左宗棠などの漢人官僚の政治的地位が向上し、「中体西用」を旗印にして清朝の改革に乗り出していく。

明治維新と日本の近代化
江戸幕府は、1853年のマシュー・ペリーひきいるアメリカ艦隊が来航。ペリーの報告書『日本遠征記』によれば、ペリー艦隊が江戸湾に入っても、1日数十隻の船が艦隊のすぐそばを通って江戸に物資を運んでいた。佐藤誠三郎は、このように日本が沿岸航路の発達と国内市場の形成が進んでいたため、経済秩序を防衛する意識も高かったと論じている[22]。この来航をきっかけに、1854年に日米和親条約を、1858年には不平等条約である日米修好通商条約を結んだのに続き、オランダ・ロシア・イギリス・フランスともほぼ同じ内容の条約を結んで開国にふみきった(安政の五カ国条約)。なお、ペリーは1854年に琉球との間にも琉米修好条約を結んでいる。

幕府は江戸湾はじめ各地に台場を設け、1855年に長崎海軍伝習所をつくり、1862年、太平天国の情勢視察のために、諸藩からの選抜者をのせた千歳丸を上海に派遣し、同年には西周や榎本武揚をオランダに留学させるなどの対策を講じたものの、すでに百姓一揆などによってその支配体制に亀裂をみせはじめており、この外圧に大きく動揺した。

開国後の混乱のなかで諸藩の下級武士を中心とする攘夷運動は、天皇をいただく討幕運動に発展し、最後の将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上して幕府統治は終焉をむかえた(大政奉還)。

1868年、天皇を中心とする新政府が樹立され(明治維新)、五箇条の御誓文を発して「開国和親」など基本方針が打ち出された。新政府は版籍奉還や廃藩置県などの施策により中央集権体制を整え、四民平等、廃刀令、徴兵令、秩禄処分などによって旧武士の特権を否定する一方で国民国家の形成を急いだ。また、地租改正によって近代的な土地所有関係を規定して、資本主義的経済発展の基礎とするとともに国家財政の財源を確保した。政府は、条約改正のための予備交渉を主目的とする岩倉使節団を派遣して政府指導者に世界の情勢を見聞させ、積極的に欧米の制度・文物をとりいれて富国強兵と殖産興業をめざした。

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新政府の施策の多くは効果的なものだった反面、国民各層とくに特権を失った士族と地租の重税に苦しむ自作農にとってはきわめて不満の多いものだった。それは、佐賀の乱をはじめとする士族の反乱、そして西南戦争後は、言論による政府批判としての自由民権運動をひきおこした。こうした動きに対し、政府は、地租の軽減や漸次立憲政体樹立の詔、国会開設の勅諭などで応じるとともに反政府活動を厳しく取り締まるなど、弾圧と譲歩で対処した。1885年の内閣制度の設置、1889年の大日本帝国憲法の発布、1890年の第一回総選挙および帝国議会の開設など、近代法および政治制度の整備にもつとめ、対外的には1875年にロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ一方で琉球、小笠原諸島を領有して南北の国境を定めた。日本はこうして19世紀後半にはアジアで唯一の自立的な近代国家となっていった。

朝鮮の開国
東アジア3国のなかで最後に開国したのは李氏朝鮮であり、日本よりも22年、宗主国の清国よりも34年遅れた。この3国は、近世においては、いずれも鎖国ないし海禁政策を祖法とし、国家が限られた場所を設定して官吏による統制貿易を行っていた。限られた場所とは、清国では広州、日本では長崎だったが、朝鮮の場合は釜山の倭館だった。いずれにせよ、自ら国をひらいて民間人による自由貿易を始めた国はなかった。また、どの国も「砲艦外交」すなわち外国によって軍事的圧力や示威行動によって不平等条約を押しつけられたことから開国した点でも共通している。しかし、その帰趨は3国それぞれで異なった。

19世紀半ばの朝鮮では国王高宗の実父である興宣大院君が摂政として実権を握り、強力な鎖国政策を進め、キリスト教弾圧も行っていた。1873年、王妃閔妃による政権が成立して勢道政治が復活すると大院君の一派は追放され、閔氏政権はそれまでの攘夷路線から開国に転じた。1875年、日本海軍の軍艦雲揚が挑発的な演習を行い朝鮮側から砲撃を受けた江華島事件を機に、明治新政府は朝鮮に開国を求め、閔氏政権はそれに応じて、翌年日朝修好条規を結んだ。これは、釜山など3港の開港とともに治外法権や無関税を規定した不平等条約だった。これにより、アメリカとの間に米朝修好通商条約、イギリス、ドイツとも同様の条約を結び開港を行ったが、それにともなう経済悪化に不満をもつ兵士や民衆は、1882年に壬午事変(朝鮮事変)を起こし、王宮や日本公使館を襲撃して大院君を擁立した。清朝はこれに介入して大院君をとらえ、閔妃を中心とする親清派が勢力を盛り返した。

閔妃を中心とする事大党(親清派)に対し、日本の近代化に着目した金玉均や朴泳孝らの独立党(開化派)は、日本と結んで改革を進めようとし、1884年に日本の武力を借りて閔氏政権をたおした。このクーデタを甲申政変という。しかし、清軍の進撃によって独立派の政権は敗退し、金玉均らは日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約を結び、おたがい朝鮮から撤兵することと、派兵の際には相互に通知しあうことなどを約した。

朝鮮の開国により、東アジア全域も世界資本主義の枠組みのなかに完全におさまることになった。

2009年04月04日

階ヶ嶽龍右エ門

階ヶ嶽 龍右エ門(かいがたけ りゅうえもん、本名:高畠 岩次郎(たかばたけ いわじろう)、文化14年(1817年) - 明治元年10月23日(1868年12月6日)は、越中国礪波郡(現在の富山県高岡市)出身の元大相撲力士。所属は二所ノ関部屋から雷部屋を経て音羽山部屋。最高位は大関。得意手は、上手投げ。身長188cm、体重131kg。

略歴 [編集]
1840年(天保11年)10月場所 - 二所ノ関部屋(師匠:元十両沢風甚八)から初土俵(十両付け出し)。
1845年(弘化2年)10月場所 - 八戸藩お抱え
1848年(弘化5年)正月場所 - 新入幕
1853年(嘉永6年)2月場所 - 新小結
1853年(嘉永6年)11月場所 - 八戸藩お抱え廃止、江戸頭書
1855年(安政2年)2月場所 - 新関脇、南部藩お抱え
1856年(安政3年)11月場所 - 大関昇進、江戸頭書
1857年(安政4年)11月場所 - 関脇へ陥落
1858年(安政5年)2月 - 二枚鑑札で年寄・熊ヶ谷を襲名。これにより5代熊ヶ谷(元幕内谷嵐)が浦風に名跡変更。
1859年(安政6年)正月場所 - 現役引退、年寄専務
1862年 (文久2年)- 年寄廃業

主な成績 [編集]
幕内戦歴:69勝32敗7分4預1無82休(22場所)
大関戦歴:5勝2敗10休1分(2場所)
各段優勝:なし

四股名変遷 [編集]
大勝 力弥 1840年10月場所 - 1841年正月場所
奥の海 1841年11月場所
竜ヶ嶽 1842年10月場所
竜ヶ嶽 勝之助(りゅうがたけ かつのすけ)1843年正月場所
階ヶ嶽 龍右エ門(かいがたけ りゅうえもん)1845年10月場所 - 1854年11月場所
岩見? 丈右エ門(いわみがた じょうえもん)1855年2月場所 - 1856年正月場所
階ヶ嶽 竜右エ門(かいがたけ りゅうえもん)1856年11月場所
階ヶ嶽 龍右エ門(- りゅうえもん) 1857年正月場所 - 1857年11月場所
熊ヶ谷 龍右エ門(くまがたに りゅうえもん)1858年正月場所 - 1859年正月場所

モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

2009年03月21日

開業区間が137kmと比較的短距離

新幹線「つばめ」
新幹線800系電車
開業区間が137kmと比較的短距離であることから、普通車のみで編成されている。座席指定席・自由席が設定されており、全座席禁煙となっている。
在来線「リレーつばめ」
787系電車
グリーン車座席指定席
編成中1両または2両に設定されており、67号以外ではコンパートメント席(4人用×1室)・DXグリーン席の設定もある。
普通車
座席指定席・自由席が設定されており、このうち67号以外の4号車はボックスシート(4人用×6室)の設定もある。なお、2007年(平成19年)3月18日改正より、全列車全車両が禁煙車になった。

列車編成 [編集]
※全列車全車両禁煙席


記号凡例 [編集]
■枠G=グリーン車座席指定席
■枠C=グリーン車4人個室(4人用×1室:個室販売)
■枠DX=DXグリーン席座席指定席
■枠B=普通車ボックスシート(4人用×6室)
指=普通車座席指定席
自=普通車自由席

新幹線「つばめ」 [編集]
<6両編成(800系)>

本系列には普通車のみの設定。
鹿児島中央← →新八代
1 2 3 4 5 6
指 指 指 自 自 自


指定席が自由席となる場合は、以下のとおりである。ただし列挙した列車以外で、4号車は指定席に変更される場合がある。
31号、100号について、3号車。
101・103号について、2・3号車。
200番台の列車について、全車。

エル特急「リレーつばめ」 [編集]
<7・8・11両編成(787系)>

※67号以外

新八代← →熊本・博多・門司港
←基本編成→ ←付属編成→※
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
DX G C 指 指 指 B指 自 自 自 G 指 自 自 自

※の付属編成は、熊本以北のみ連結。3・5・21・30・32・36号は毎日、その他の列車でも多客時には臨時連結している。

※67号(4+4両<付属編成2編成併結>)

新八代← →博多
1 2 3 4 5 6 7 8
G 指 指 指 自 G 自 自 自 自

指定席が自由席となる場合は、以下のとおりである。
30号、65号について、3号車。ただし、自由席とならない場合もある。
上り列車の久留米→博多間について、2号車を除く普通指定席車両。
1、3号の門司港→博多間について、2号車を除く普通指定席車両。
2・3の場合は空いている指定席を自由席として開放するため、指定席特急券を持つ客が優先される。
また、列車の運行状況によっては5・9・10号車は指定席に変更される場合がある。
列車番号 [編集]
「つばめ」の列車番号については、他の新幹線列車と同様に、速達列車に1から始まる番号を付し、各駅停車タイプを速達列車が設定し終わった後の30番台から始まる番号を付加する。早朝・深夜に運行される熊本駅発着の「リレーつばめ」に連絡する列車については100番台とし、川内駅発着の列車を200番台としている。また、全列車末尾に九州新幹線を意味する「F」を符番する。

「リレーつばめ」についても冒頭の説明にあるとおり、下り始発列車を1号、上り始発列車を2号とするナンバリングを採用せず、新幹線列車と同じ符番をなされている。ただし、列車番号については、在来線列車であることから全列車末尾に「電車」を示す「M」が符されている。また、100号台の「リレーつばめ」の列車番号は30番台から始まる番号からの続き番号(例:「リレーつばめ101号」の列車番号は「71M」)となっている。これは、「特急列車の列車番号は百の位を0」とする国鉄時代からの規則による。なお、2004年の開業当初から2005年9月30日までは80番台を用いていた。

同様の方式は、東北新幹線「はやて」と八戸駅で接続する特急「白鳥」・「スーパー白鳥」・「つがる」でも採用されている。


沿革 [編集]

「つばめ」・「はと」の概要 [編集]
1930年(昭和5年)10月?1943年(昭和18年)10月と、1950年(昭和25年)10月?1975年(昭和50年)3月の間、国鉄には「燕」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されていた。1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされた。その速度感ある名称から、常に特急列車の愛称として用いられてきたものである。なお同列車の沿革に関しては、東海道本線優等列車沿革と山陽本線優等列車沿革の項目も参照のこと。

一方「はと」は、第二次世界大戦末期まで中国大陸の満州(中国東北部)で運行された列車の愛称であり、戦後は一転して日本国内で「つばめ」の姉妹列車として運行された歴史を持つ。


太平洋戦争前の経歴 [編集]

1930?1943年 東海道本線"超特急"「燕」 [編集]
初出は、1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅?神戸駅間に運転を開始した特急「燕」である。

なおこのときの表記は漢字書きであったが、当時の時刻表などでも漢字表記と平仮名表記が混在しており、また最後尾に掲げられたテールマークも平仮名であったため、平仮名で「つばめ」と表記したとしても、誤りとはいえない。

この愛称は、先行して運転されていた「富士」・「櫻」同様に、1929年(昭和4年)に行われた鉄道省特別急行列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものである。なお、このとき「燕」は2位であった。公募について詳しくは、列車愛称の記述を参照されたい。

東京駅?大阪駅間を、それ以前の特急「富士」に比して2時間半近く短縮する8時間20分で、東京駅?神戸駅間は9時間で走破。その俊足から「超特急」と称された。

当時の長距離列車の例に漏れず、機関車に牽引される客車列車である。一・二等専用だった「富士」、三等車のみだった「櫻」と異なり、一・二・三等車全てを連結した初めての各等特急でもあった。本来は最後尾に一等展望車を連結する予定であったが、当初は展望車の新規制作が間に合わず、1931年(昭和6年)9月まで一等寝台車を座席車扱いとして代用した。列車の設定に当たっては、大阪などで定時運行・石炭節約の功績を挙げていた、山陽鉄道出身の結城弘毅を運転課長として本局に招き、指揮をさせた。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

「燕」は最速列車として人気が高く、1931年(昭和6年)12月からは同時間帯に二・三等車で編成された臨時列車「臨時燕」を増発するほど好評を博したが、定期列車と異なり東京?大阪間の運転。1934年12月以降は「不定期燕」と改称し、一時期は一等寝台車も座席車扱いで連結された。

1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルの開業で東海道本線が熱海経由となった。距離・勾配が大幅に短縮・緩和され、東京駅?大阪駅間の所要時間は8時間にまで短縮している。この記録は1956年(昭和31年)11月の東海道本線全線電化までの22年間、破られなかった。

1936年(昭和11年)8月、「燕」に国鉄初の冷房装置搭載の新製食堂車を連結。
尚、この冷房装置の動力には車軸回転を利用していたが故障も多く、数年間にわたり試行錯誤が続けられた。
1937年(昭和12年)7月、「燕」の姉妹列車として、東京駅?神戸駅間に「鷗」を設定。ただし、全区間の所要時間は「燕」より20分長かった。
1940年(昭和15年)、食堂車の冷房装置を使用中止[1]。
1942年(昭和17年)11月、「不定期燕」廃止。
1943年(昭和18年)2月、「燕」は太平洋戦争の激化により運転区間を東京駅?大阪駅間に短縮し、「鷗」は廃止。同年7月、それまでの「特急」を「第一種急行」、「急行」を「第二種急行」と呼ぶようになる。しかし、同年10月、戦争激化に伴い「燕」は廃止となる。

2009年03月06日

山童(やまわろ、やまわらわ)

山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州を始めとする西日本地方に伝わる童子姿の妖怪。河童が変化したもので、山間部に棲むといわれる[1]。山????(やまわろ)と記されることもある。

姿は10歳程度の童子のようで、頭には柿褐色の長い頭髪を生やし、全身が細かい毛に覆われている。胴は短く、2本の長い脚で直立して歩き、人の言葉を話すとされる[2]。

三重県を除く西日本では、河童が山に移り住んで姿を変えたものが山童だといわれており、特に秋の彼岸に河童が山に入って山童となり、春の彼岸には川に戻って河童になるとする伝承が多い[1]。宮崎県の西米良地方では、セコが夕方に山に入り、朝になると川に戻るという[3]。熊本県南部ではガラッパが彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになるという[3]。このような河童と山童の去来を、田の神と山の神の季節ごとの去来、さらには夏季と冬季に二分される日本の季節に対応しているとする見方もある[1]。

山へ行き来する際には集団で家の屋根伝いに行動するというが、この通り道はオサキと呼ばれ、人がここに家を建てると怒り、壁に穴をあけてしまうという。またこの川に戻る山童たちを見に行こうとすると、必ず病気になってしまうという[4]。

山中で樵の仕事を手伝ってくれることがあるが、そんな時にお礼として酒や握り飯をあげると繰り返し手伝ってくれる。熊本の葦北郡では山仕事が多いとき「山の若い衆に頼むか」と言って山童に頼むという]。また礼をあげるときは飯でも魚でも、たとえ量が少なくても最初に約束した物でなければならないといい、そうしないと山童は怒るという。仕事の前に礼の食べ物をあげると食い逃げされてしまうとい。

河童と同じく相撲好きだともいわれる。牛や馬に悪戯を働くことを好むとも、人の家に勝手にあがりこんで風呂を使うともいう[3]。天狗倒しや山中での怪異は、東日本では山の神や天狗の仕業とされるが、西日本では多くがこの山童の仕業とされている[1]。人間が山童を殺そうと考えると、その心を読んですぐ逃げてしまうとの説もあるが[4]、これは人の心を読むといわれる妖怪・狒々の伝承の混同とされる。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

山童と同種とされる妖怪はセコ、カシャンボ、木の子など多数の伝承がある[3]。山爺やタテクリカエシを山童の亜種とする説もある[1]。飛騨(現・岐阜県)ではヤマガロともいい、山に入って来る樵から弁当を奪うなどの悪戯を働くという

2009年02月14日

ダンジョンクルセイダーズ

クリフ・ヴァーンガルド(声:なし)
主人公。騎士団によってフェルエトの封印に自らの身体を利用され軟禁状態となっていたが、セシリアと共に脱走して冒険者となる。ルーレブルグの地下遺跡群に眠る宝珠を全て開放すれば力を思いのままに制御でき、そしてフェルエトも解放できると信じ冒険に出る。
戦士タイプで並び順は1番目。物理攻撃に秀でており、パーティの盾となる。強力な武器・防具を装備可能。スキルは物理攻撃に適したものと一部の魔法を取得可能。
セシリア・ウエンスアース(声:風音
みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

クリフの幼なじみで、作中ではセシルと呼ばれることも多い。最年少で聖騎士となった実力者だがクリフの脱走を手伝って出奔し騎士団から追われる身となった。フェルエトの魂が身体に封じられている。
騎士タイプで並び順は2番目。物理攻撃・防御共に秀でており、強力な武器・防具を装備可能。特に聖属性が付加された武器を多数装備可能。スキルは物理攻撃に適したものと、聖属性攻撃魔法・回復魔法が中心。リザレクション(死者蘇生)を取得可能なのはセシリアのみ。聖属性に弱点を持つモンスターは少なくないため、攻撃の主力となる。
フェルエト(声:野神奈々)
セシリアに封印されている悪魔。魔界でも最強に数えられる存在だったが、封印された現在は時折セシリアと入れ替わって姿を現すのみ。セシリアとフェルエトは入れ替わっているときも互いに意識を共有しているため、フェルエトの自我も人間に近づきつつある。RPGパートでは一切操作に関与しない。
エリカ・ルーレブルグ(声:青川ナガレ)
ルーレブルグ領主の娘。物語序盤でパーティに加わる。母親は先住民族ディルガ族の女性で、人間によるディルガ族への差別や種族間の対立に心を痛めている。ルーレブルグ家は精霊召喚に長けており、エリカには非凡な才能が眠っている。
魔法使いと盗賊と遊び人が混ざったタイプで並び順は4番目。物理攻撃・防御は共に低く、盾は装備出来ない。スキルは攻撃魔法・補助魔法・回復魔法が中心。物理攻撃スキルもいくつか取得可能だが、効果は薄い。
アヤメ・ノイエンドルフ(声:かわしまりの)
メイド長。かつては凄腕の傭兵団長だったが、ある事件がもとで追われる身となり剣を捨てた過去を持つ。物語中盤でパーティに加わる。
侍タイプで並び順は3番目。物理攻撃力はパーティメンバーで最強だが、防御力は心もとない。使い勝手に優れた武器を多数装備可能だが、盾は装備出来ない。スキルは物理攻撃に適したものが大半だが、クリフを癒すスキルと一部の魔法も取得可能。
イリス(声:大波こなみ)
記憶喪失気味の迷子の魔法使い。物語の冒頭部分でクリフ一行と遭遇しパーティに加わる。『マジカルウィッチアカデミー』のイリスと同一人物である。
その正体は、本シリーズの世界を統べる守護神である「天空の三女神」の長女にして「天空と大地を統べる精霊王」である『イリスティア・ヴァルス・ウィザー』であるが、とある目的で地上に降りた際に初盤記憶を失い、クリフ達と出逢い、後に記憶を取り戻す。そして地上に降りた目的とクリフ達の目的が同じだと分かり行動を共にし、クリフ達人間に目的に対する「神々の方法」以外の可能性に賭けた。
エピローグにおいて、今後魔法を間違った使い方をしないように教育する場所を作ると『マジカルウィッチアカデミー』の舞台でもある「ウィザーディア魔法学院」を設立し、学院長となって世界の魔法を未来永劫見守り続ける事にした。そして約100年後と数世紀後、かつて共に闘った仲間達の子孫達と出逢う事となる(本作では「マジカルウィッチアカデミー」の主人公・ツカサの祖先(少年)と出会うシーンがあり、その時からツカサと出会う事を予知する場面が描かれた)。
魔法使いタイプで並び順は5番目。魔法攻撃に優れるが防御は非常に低く、盾は装備出来ない。スキルは攻撃魔法が中心でイリス固有の威力の高い闇属性魔法も取得可能だが、使い勝手にはやや難がある。

その他
グレイス・アン・ルーレブルグ(声:榎津まお)
エリカの異母妹で、姉を慕っている。領民には好かれているがクリフに対してはキツく当たる。ツンデレ枠かと思いきや、そうでもない。そこそこできる魔法使いの模様。従兄弟で従者のバルドウィンのことが好きだが、まったく気付いてもらえないでいる。
クローディア・クラウジース(声:深井晴花)
聖オルテナ騎士団の部隊長で、クリフとセシリアとは幼なじみ。騎士団内では新進派の第一人者でフェルエトを封印した事実を公表し、クリフたちを救済しようとしている。
カミラ(声:白井綾乃)
ディルガ族の女で一匹狼のシーフ。薄れつつあるディルガの血を色濃く受け継いでいる。
キリエラ(声:如月葵)
ルーレブルグ家領主の側近で、領主とは愛人関係にある。カミラの妹。
ピッピ(声:金田まひる)
いつもエリカと一緒にいるホムンクルス。エリカのスキルの一部(「もらってくね♪(アイテムを盗む)」、「なんか出しなさいよ(アイテム取得率上昇)」など)はピッピの行動によるものと思われる。
ニーナ(声:白井綾乃)
冒険者の酒場「『白の雌鹿』亭」の女主人。過去に街の有権者の愛人になった事があるが、後に没落し、男も落ちぶれてチンピラ風情になってしまったため、縁を切っている。
ユーミ(声:大波こなみ)
アイテムショップ「ユーミの店」の看板娘。
ナナミ(声:深井晴花)
アヤメの部下のメイド。『人形の館』の某キャラをリスペクト。
シオン(声:青川ナガレ)
アヤメの部下のメイド。『人形の館』の某キャラをリスペクト。
マイア(声:榎津まお)
アヤメの部下のメイド。『人形の館』の某キャラをリスペクト。
バルドウィン
グレイスの従兄弟で従者であり、普段はグレイスと一緒に街の警備をしている傍ら、グレイス・ドゥーガルと共にダンジョンで探索・討伐をしている。容姿・性格・剣技に優れているが朴念仁で、グレイスの気持ちに気付いていない。
ドゥーガル
グレイスがダンジョン探索の際に雇っている初老の傭兵で、数多の戦場を駆け巡った歴戦の戦士。彼が入る軍隊は必ず敗北する事から「負け戦のドゥーガル」と呼ばれ、アヤメとは過去の戦で面識がある。義理深い性格で、グレイスに雇われたのもアヤメ絡みな為でもある。
ゲオルグ伯爵
ルーブレルグ領主でエリカとグレイスの父親。温厚な性格でディルガ族も含む領民からも慕われている。いつの日にか領民とディルガ族が真に手を取り合う事を信じ尽力している。
クプテポリカシュ
ディルガ族の長老。過去の悲劇を伝えつつ、復讐をせず領民と協力しあう事を後世に教えている。
ウェイズレイ・バーグマン
聖騎士団々長で、過去にフェルエトが起こした大戦において活躍し、「英雄」と称されているが、最近は騎士団首脳部に対し強攻策などを唱えるなど言動が目立ち、現在ルーレブルグ近辺においてクリフ・セシリアを保護する為に軍を率い滞在中。
実は過去の大戦において魔物の瘴気に精神を蝕まれており、「封印」の解除に助勢している(本人は操られていないように思わされている)。
バルダート
騎士団総長で権力志向が強い。クリフとセシリアの捕縛にルーレブルグに騎士団を引き連れてきた。
昔はそれなりに剣を使えたが、権力をもつと共に鍛錬を怠るようになり、現在は一般兵並みの腕になっている。
コモッティ
バルダートに取り付く腰ぎんちゃく的存在で小心者。自称策士でクリフとセシリアの捕縛に色々な手を考えるが、成功した試しがない。
リビティナ
「天空の三女神」の末妹で「冥の精霊王」で本名『リビティナ・シェイド・ニュクシア』。作中記憶を取り戻したイリスと交信をしつつ、南方大陸において『「ハイランド・ガルド」の大封印』の準備をしていた。大昔に「あるモノ」の封印をし、ディルガ族に封印の守護を命じた張本人であり(イリス曰く「無精しおって」)、この物語の原因の半分はこの人物のせいでもある。
マニ=デ=クチャラ
太古の昔よりルーレブルグの地に住み、ディルガ族が崇める大精霊で、大昔にリビティナに「あるモノ」の封印を押さえつける任務を与えられた。代々ディルガ族の巫女にのみ従い、普段は御神体である獅子の像に入っている。作中エリカの「巫女の儀式」中に御神体は破壊されたが、契約自体は間に合いエリカの中に入った(御神体が破壊された事により本来の力はあまり出せない)。エリカからは「クーちゃん」と呼ばれている。契約後はエリカの魔法に「大精霊マニ=デ=クチャラ」が追加される。
カレン
EXPANSIONに登場。フェルエトの12番目の妹だが、誕生して間もなく封印されたためフェルエトも存在を知らなかった。本遍で「封印したモノ」が倒されたため封印が解かれた。魔力は高く、妖艶な肢体をしているが、誕生して間もなく封印されたため思考は子供と変わらず(学習能力は高い)、すぐにダダをこねる。

2009年01月27日

モスキートは夜間軽攻撃部隊

モスキートは夜間軽攻撃部隊 (LNSF;Light Night Striking Force) の主力機として最も使用され、正確な照準と航法で夜間高速爆撃を行った。モスキートの任務は大きく2つに分けられ、1つは重要度が高いものの、規模が小さく破壊が難しい施設を爆撃した。もう1つは味方の重爆撃機の空襲を掩護するため、チャフを散布して大規模空襲を装った。また、重爆撃機部隊による空襲が予定されていない場合でも、ドイツ軍の防空部隊に休みを与えないよう夜間軽攻撃部隊が襲撃することもあった。

モスキートが投入された最も大胆な作戦はジェリコー作戦 (Operation Jericho) であり、フランスのアミアン刑務所の壁と警備員の宿舎を爆撃し、レジスタンスのメンバーの脱出を助けた。最も素晴らしいのはノルウェーのベルゲンにあったゲシュタポの司令部空襲で、低高度からの非常に精密な爆撃を必要としたが、囚人を解放して記録資料を焼き払った。

モスキートはパスファインダーとしても多くの爆撃作戦に参加した。それは、編隊爆撃で精密ではない広範囲な爆撃を行う重爆撃機のために非常に正確な位置に照明弾で目標を知らせることであった。爆撃機軍団に所属するモスキートは、28,000以上の作戦に参加し、投下した爆弾の総トン数は35,000で、これらの過程で失われたモスキートは193機であった。しかし、この損耗率は0.7%に過ぎず、重爆撃機の方は2.2%である。

モスキートは優れた搭載量と巡航速度による恩恵で、効率的な作戦行動ができる。例えば、同じ爆撃機軍団のショート スターリングと一緒に4,000ポンド爆弾を搭載してドイツ空襲に向かった場合、スターリングが行って帰ってくるまでに、モスキートは爆撃を終えて基地に戻って補給し、さらに2度目の爆撃を終えさせ、スターリングが着陸態勢に入るころには、すでに基地に着陸していた。

第二次世界大戦後、内戦状態になった中国では、劣勢の国民党軍が安価な対地攻撃機を大量に必要としており、1948年にカナダ製モスキート180機が導入されることになった。中国語で「蚊式機」と呼ばれたモスキートの能力は戦時中から知られており期待されたが、機体寿命の短い木製機の中古であり、しかも船積みで輸送中に海水や高温で機体やエンジンにダメージを受け、この段階で28機が使用不能となった。また一定以上の操縦技量も必要で、機体の不調や事故により実戦投入前に50機以上が失われてしまった。その後実戦投入されたものの、移動の多くを夜間に行うゲリラ的な共産党軍に対してはあまり活躍できず、最終的に少数が台湾に撤収し、残された機は廃棄された。

派生型
爆撃機型

第105飛行隊のモスキート B Mk IV シリーズ 2B Mk. IV
当初PR Mk.Iから改造された最初の爆撃機型である。改造されたB Mk.IVはシリーズIと呼ばれ、後の生産型(シリーズII)と区別された。
B Mk. V
爆撃機型試作機で1機のみ製作(W4057)された。
B Mk. VII
カナダ製のB Mk. IVで、エンジンがパッカード・マーリンになっている。
B Mk. IX
B Mk. IVの後継機でマーリン72を搭載している。
B Mk. XVI
B Mk. IXに与圧装置を組み込み、高々度での運用を可能にした。また、電子機器も充実している。
B Mk. XX
カナダ製のモスキートでB Mk. VIIの機体にパッカード・マーリン 31/33を搭載したものである。
B Mk. 25
B Mk. XXのエンジンをマーリン 225に換装した機体で爆弾搭載量が4,000lbに増大した。
B Mk. 35
モスキートの最終量産型で、マーリン 114を搭載している。

戦闘機型
モスキート NF Mk IIF Mk. II
最初の戦闘機型である。
NF Mk. II
F Mk. IIに機上迎撃レーダー(Mk. IV)を装備して夜間戦闘を可能とした機体である。
NF Mk. XII
NF Mk. IIのMk. IVレーダーをMk. VIIIレーダーに換装した機体である。
NF Mk. XIII
FB Mk. VIにレーダーを装備した機体である。
NF Mk. XV
エンジンにマーリン 73を搭載して、高々度戦闘用とした機体である。
NF Mk. 30
エンジンをマーリン 72/76に、レーダーをMk. Xにした機体である。
NF Mk. 36
NF Mk.38

写真偵察型
PR Mk. I
最初の量産型である。偵察型であり、カメラを装備している。1941年7月31日から実戦配備され、1941年9月17日に最初の写真偵察を実施した。
PR Mk. IV
B Mk.IV改造の写真偵察型である。爆弾倉に燃料タンクが増設されたため、航続距離が大幅に伸びている。
PR Mk. VIII
B Mk.IVを改造して5機のみ製作された機体である。
PR Mk. IX
B Mk. IXを元に作られた偵察機型である。
PR Mk. XVI
B Mk. XVIにカメラを搭載して、燃料を増大させたもの。
PR Mk. 34
PR Mk. XVIのエンジンをマーリン25に換装し、東南アジアで使用された。

戦闘爆撃機型
FB Mk. VI
モスキート中最多生産数を誇る機体である。
FB Mk. XVIII
57 mmモリソン砲又はビッカースS機関砲を搭載した対潜水艦、舟艇攻撃機である。

エースパイロット
"Bob" John Randall Daniel Braham
Branse Burbridge
Leonard Cheshire
Sidney Cotton
ジョン・カニンガム当時:少佐?中佐(夜間戦闘機型によるもの)
Geoffrey de Havilland Jr
Bill Edrich
Guy Gibson
Kirk Kerkorian
Keith Miller
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

Bolesław Orliński
Percy Charles Pickard
Erik Hazelhoff Roelfzema
Kenneth Wolstenholme
Eric "Winkle" Brown

仕様 (B Mk. XVI)
Jane's Fighting Aircraft of World War II[1], World War II Warbirds[2]

諸元
乗員: 2名 (パイロット、航法兼爆撃手)
全長: 13.57 m (44 ft 6 in)
全高: 5.3 m (17 ft 5 in)
翼幅: 16.52 m (54 ft 2 in)
翼面積: 42.18 m2 (454 ft2)
空虚重量: 6,490 kg (14,300 lb)
運用時重量: 8,210 kg (18,100 lb)
最大離陸重量: 11,350 kg (25,000 lb)
動力: ロールス・ロイス マーリン V型12気筒液冷レシプロエンジン, 1,275 kW (1,710 hp) × 2
性能
最大速度: 667.9 km/h (415 mph) 高度8,535 m (28,000 ft) 時
フェリー飛行時航続距離: km (海里)
航続距離: 2,400 km (1,500 海里)
実用上昇限度: 11,280 m (37,000 ft)
上昇率: 14.5 m/s (2,850 ft/min)
武装
爆弾搭載量:1,800kg (4,000 lb)
FまたはNF型:20mm イスパノ機関砲 4門
FまたはNF Mk.II型:7.7mm (.303 in) ブローニング機関銃 4門(NF Mk.XII型以降は撤去)
FB XVIII:57mmモリンズ砲 機首1門
Mk VI:27kg (60 lb) ロケット弾 8発
アビオニクス
NF型:AI Mk.IV, VIII または X レーダー
ジー (GEE) 無線誘導器